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| 位置づけ | ドルノド県の県都(正式名称はヘルレン)。名称は、チョイバルサン首相(1895〜1952年)にちなむ |
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| 人口 | ドルノド県の人口(2020年時点で約8万人台)のおよそ55%が住む、モンゴル東部最大の都市 |
| 特徴 | ロシア、中国(内モンゴル自治区)の両方と国境を接する。ロシアへ続く鉄道と国際空港がある。石油、石炭などの鉱物資源にも恵まれる |
| 自然 | ヘルレン川、オノン川、ハルハ川の流域に木々が茂り、多様な鳥類や野生動物が生息。運がよければ、大草原でモンゴルガゼルの群れに出会える |
| 飛行機 | ウランバートルからMIATモンゴル航空が週2便。帰りも同日折り返し。所要約1時間30分、片道約30万1,500Tg |
| 長距離バス | ウランバートルのテンゲル長距離バスターミナルから毎日8:00、13:00、18:00発。所要約12時間、6万1,800Tg。帰りも同時刻発 |
| 空港から市内 | バスはあるが便数が少ないため、タクシー利用が一般的。約2万Tg |
空港と市内の間は舗装道路が整備され、タクシーで移動できます。ウランバートルから長距離バスで町に近づくと、市名を書いた大きな看板が見えます。博物館やモンゴル戦士記念碑を過ぎると、市街地に入ります。長距離バスの停留所は、ザハ(市場)のやや東側です。ザハは、食料品、日用雑貨、電化製品、工具まで何でも揃い、多くの人でにぎわいます。ザハからは、近郊の村や中国(内モンゴル自治区)行きのバスも出ています。中心部には、スーパーマーケット、レストラン、食堂、ナイトクラブ、カラオケがあり、中心部の隅々まで徒歩で回れます。
1950年に地域研究所として設立され、1999年に県博物館となりました。館内は、歴史、芸術ギャラリー、自然史、ノモンハン事件(ハルハ河戦争)とソ連軍団長ジューコフの展示室の4つに分かれています。歴史展示室では、チョイバルサンの執務室を再現した展示や、19世紀半ばにこの地を治めた人物の業績の紹介が興味深く、バルガ、ブリヤート、ウゼムチンなど、東部のモンゴル系諸部族の展示も充実しています。ギャラリーには、ドルノド県出身の画家の作品が多く並びます。
| 場所 | ヘルレンソム 第3バグ |
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| 電話 | 9333-1950 |
| 開館 | 9:00〜18:00(冬季9:00〜17:00)。無休(冬季は土・日曜休み) |
| 料金 | 5,000Tg。写真撮影5,000Tg、ビデオ撮影1万Tg |
ノモンハン事件(ハルハ河戦争)50周年の1989年に落成した、高さ24mのアーチ形の記念碑です。中央に、勇ましく突進するモンゴル騎兵の像があり、周囲のモザイク絵のテーマは「出征」「勝利」「平和」。日本兵もソ連兵も描かれていないのが特徴的です。小高い山の上にあり、市街を見渡せます。
| 場所 | ヘルレンソム 第3バグ。県庁舎から約3.5km |
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| 位置 | モンゴル国の東端。ウランバートルから約1,000km離れた、ドルノド県に位置する |
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| 歴史 | 1689年からハルハ貴族らに支配され、遊牧だけでなく農地開発、宗教、文化の中心地として発展。清朝時代、社会主義時代を通じて拡大を続け、1994年にスンベル郡を統合して、モンゴル国で最大面積の郡となった |
| 自然・資源 | 山地、草原、ゴビというモンゴルの特徴をすべて備え、動植物や鳥の種類も多い。炭鉱、鉱山、油田の採掘も盛ん。社会主義時代は農業生産基地として開発が進んだ。現在は油田開発が活発で、中国へ原油が送られている。中国との国境貿易のため舗装道路が整備されるなど、大きく変化している |
| ノモンハン事件 | 中心地は、ハルハゴル(ハルハ川)のほとりにあり、流域一帯は1939年にノモンハン事件(ハルハ河戦争)の戦場となった。今は多くの記念碑、慰霊塔が建つが、塹壕跡、軍車両の残骸、薬莢、銃弾が散見され、戦闘の激しさを伝える |
| 行き方 | チョイバルサンからミニバスが、乗客が集まり次第出発。6万5,000Tg程度(ガソリン込み)、所要7時間以上。途中、国境地帯を通るため、国境警備隊の検問があり、パスポートと国境地帯入域許可証を提示する。車をチャーターする場合も、飲料水、食料、燃料は余裕をもって出かけること。300kmを超える道のりだが、道路状況は時期や季節によって変わります。午前中にチョイバルサンを出発すれば、日中に着けることが多いようです |
1939年のノモンハン事件で最も激しい戦闘が行われたハマル峠に、1984年に建てられた戦勝記念碑。高さ50m。中心の柱の正面にモンゴル、ソ連両軍の兵士、裏側にモンゴル民族衣装の女性が配置され、両国の友好関係を表しています。正面の両翼には当時の騎兵、歩兵、戦車、戦闘機が配置され、激闘の様子をリアルに伝えます。今の平和が、いかに多くの犠牲によって得られたものかを表現しています。ハルハゴル郡の中心を見下ろす丘にあります。
| 場所 | ハルハゴル市街地入口付近。市街地から西へ約2.5km |
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ノモンハン事件の膨大な資料を展示しています。戦争が起きた経緯や戦闘中の様子を詳しく知ることができ、投降を促すビラを読むと、国境の両側で暮らしていたモンゴル人たちの葛藤を読み取ることもできます。有料で、博物館周辺のガイドも頼めます。宿泊施設も併設。外観は2019年に改装されました。
モンゴルで5番目の大きさの淡水湖。湖水上を国境が貫く、珍しい湖です。1954年に漁業基地が設置され、大いに発展しましたが、現在では約20世帯が小規模に漁を行うにとどまります。湖畔には、たくさんのツーリストキャンプがあります。
ハルハゴル中心地から北に約35kmにある石像。観音菩薩像の8つの手は、8つの災害、害悪から土地を守るとされ、信仰を集めてきました。社会主義時代に破壊されましたが、1990年から復興が始まり、再建された1997年から、再びこの地を守る仏として信仰を集めています。
| 時期 | 1939年5月〜9月 |
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| 当事者 | 日本・満洲国軍と、ソ連・モンゴル軍 |
| 呼び方 | 日本では「ノモンハン事件」。モンゴルでは「ハルハ河戦争」。日本での知名度は低いが、非常に重大な歴史的事件と見なされている |
| 結果 | 戦いはソ連・モンゴル軍の勝利に終わった |
| 現在 | 当時の戦場には多くの記念碑が建てられている(→ハルハゴルのページ) |
1939年5月から9月にかけて、モンゴルと満洲国の国境付近で、日本とモンゴルの関係を語るうえで欠かせない戦いが繰り広げられました。日本ではほとんど語られませんが、モンゴルでは国民の誰もが知る戦争です。2024年には、戦勝85周年の式典が行われました。
戦いの舞台となったハルハ河周辺の地域には、モンゴル民族のなかでもハルハ族とバルガ族という部族が住んでいました。1734年に清朝によって、ハルハ河の東方約15kmの場所に、ハルハとバルガの境界線が引かれました(境界線の西側がハルハ、東側がバルガ)。ハルハ族はこの決定に不満で、ハルハ河が境界線であると主張し、たびたび境界争いを起こしました。清朝、そして清朝のあとを継いだ中華民国は、一貫してバルガ側の主張を退けていました。
ところが、1931年に満洲事変を起こした日本が満洲国を打ち立てると、バルガ族の土地は満洲国の領土となります。国境についての歴史的経緯をあまり知らない日本は、バルガ側の主張をそのまま受け入れ、ハルハ河が国境線であると主張するようになりました。こうして、ハルハ河を巡るモンゴルと満洲国の国境紛争が頻発するようになりました。
当時、モンゴルはソ連の強い影響下にあり、ソ連は日本と激しい対立関係にありました。そのため、モンゴルと満洲国の紛争は、たちまちソ連と日本の紛争に飛び火しました。5月に行われた「第1次ノモンハン事件」は、ソ連・モンゴルの連合軍と、日本・満洲国の連合軍による、小規模な衝突でした。6月から始まった「第2次ノモンハン事件」は、双方の合わせて10万人近い兵力が激突する、実質上の戦争といえる規模まで拡大し、5月から9月までの戦いで、日本・満洲国軍は大きな損害を出しました。
こうして、国境紛争が、ノモンハン事件=ハルハ河戦争となりました。
日本では、「ノモンハン事件」は国境紛争と見なされ、現地と上層部の温度差、情報収集の軽視、失敗責任の不明確さなど、日本型組織の失敗の典型例として語られることが多くあります。しかしモンゴルにとっての「ハルハ河戦争」の位置づけは、まったく違います。
モンゴルにとってハルハ河戦争は、ソ連の力を借りて自国領土への侵略を撃退した記念すべき祖国防衛戦争と見なされています。「祖国のために」というスローガンのもと、国民一丸となった戦争への協力体制が築かれ、労働時間の自発的な延長、残業代の寄付、家畜の献納、物資運搬への協力などの運動が、全国的に行われました。強大な日ソ両国にとっては「辺境の小競り合い」であっても、小さく貧しいモンゴルにとっては、国家の総力を挙げた大戦争だったのです。だからこそ、ハルハ河戦争は、モンゴル人にとって忘れられない国民的記憶となっています。
2024年、戦勝85周年の式典が行われる際、ロシア大統領の招待が話題となりました。この国際情勢に関わる点は、掲載する場合、時点を明記するか、記載しないかをご判断ください。